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     語り残し



斎藤一について、様々な人々が語り残した内容を、私の知る範囲でここに掲載した。生前の彼を知る人々の証言は、貴重な資料であるということは言うまでもない。



   藤田五郎(斎藤一) 遺談

我田に水を引くではないが、当時江戸で募集せられ京に上った二百五十人ばかりの浪人剣士の群で、さァその幾割が自身の姓名が自分で書けましたかね。刀や槍をもたしなんでは、押しも押されもせぬ一匹一人でしたが、字学(学問のこと)の方は、カラ駄目な連中ばかりでして、それだからこそ、清川ごときにごま化されたんです。芹沢や近藤はその方でもツワ者でして、ことにつめ開きなどになると、近藤が出ぬとどうともならず、これにはさすがの芹沢も兜を脱いだようでした。そんなわけで近藤が私共とさしにでもなると、「斎藤、貴公の剣術は申分なしだが、字学の方はそれではいかぬ。武士の魂といわれている刀ですら、大小二口手ばさんでいるではないか。ことに、これからの世の中は、子曰くばかりでもいけず、横文字まで習わぬことにゃ、どうともならぬという世の中になって来たんだ。せめて自分の姓名ぐらい自分に書けぬことにゃなァ」などとよくいってくれたもんです。―――さァ誰でしたかね、武田観柳だったかも知れません。吾々十七人の者が京師に残ると事がきまり、会津様―――肥後守容保公ですね―――その会津様のお預りということになって間もなく、芹沢でしたか近藤でしたか、会津様御家老にお願い申して、記録方―――帳つけ役をお借り申したことだけは真実でした。


藤田五郎(斎藤一)の談話というものは、極めて異例である。いつ、誰に語ったものか判然としていないが、極めて貴重なものであると私は思っている。



     藤田五郎(斎藤一) 遺談 其の二

小石川小日向柳町の近藤先生の道場に、遊んでいた頃、私が四谷のある古道具屋から買った一刀で、先生が大変気に入った様であったから、進上した。無銘ではあったが虎徹に似ているとて、愛玩されていたものです。


これは、藤田五郎(斎藤一)が御茶の水の高等師範学校に勤務していた頃、谷保村の本田退庵と浅川町の小林浅洲とが面談した時、近藤勇の愛刀虎徹について語った言葉である。この談話によると、斎藤一は新選組入隊以前より、試衛館に出入りしていたようである。また、斎藤一はこの話を佐藤俊宣が訪問した際にも語ったという。



     藤田五郎(斎藤一) 遺談 其の三

すべて鉄造りで、銅の丸鍔に竜の彫物がありました。銘は無く、元、何々と在銘のものをすりへらした様にも思われました。確か二尺三寸五分程あったと思います。


この談話も、いつ、誰に語ったものかは判然としないが、この内容が近藤勇の愛刀虎徹について語ったものであることから、上記の談話と同じ時に語ったものである可能性もある。



     「史談会速記録」における阿部十郎の談話

私共同志の内、斎藤一郎(斎藤一のこと)という者がおりましたので、彼は「殉難録稿」には近藤がわれわれのところに密使にいれたように出ておりますが、これは決して左様ではございませぬ。斎藤一郎も全体唯剣術を使いますだけで、国家の何者たるやあるいは勤王の何者たるやを弁えぬ人間で、始終近藤勇についておったのでございます。全体この人は女にのろい奴で、島原に自分の馴染の太夫がございまして、それが後に祇園の芸者になりまして、祇園に参っておりました。その時分には、私共は高台寺におりましたから、それがために斎藤がその女にはまって逃亡を致しました。それで私も伊東甲子太郎が実は万一の時に至ったらという考えがございまして、濃州の水野弥太郎という者がある。これは江州以西の男伊達でございまして子分の三千人もございました奴で、勿論勤王でございます。これがためにそれに結んでおきまして、万一の時には人数を出すと申しておりました。この水野からも幾分か助勢を受けておりました。その折に伊東甲子太郎が五十円の金の包を机の抽斗に入れておいて、我々はみな外出をしておらなかったのでございます。その留守に斎藤が五十円を持ち出して帰ってきませぬので、ところがそういう人間ですから、自分の女のところに行って金を使ってしまったものですから帰ることが出来ませぬ。そこで近藤の方へ行って我々の密事を告げましたので、それから近藤勇は大いに驚きまして、どうもそうしてはおけぬということになりまして、我々も残らず撃ってしまう計画を致しておりましたので、それで十一月十八日の晩でございますが、私はその日は伊東の密意を含みまして探偵に出て、おりませぬで、大和街道に参っておりました。その留守に伊東甲子太郎が近藤勇に夜会いに参りました。というものは近藤が書面を以って招きましたので、非常に甲子太郎を饗応致しました様子で、その帰り途、七条のあるところで四人の待ち伏せを致しておきまして、その四人というのはみな近藤勇の高弟でございます。大石鍬次郎、宮川信吉、アトの両人はよくわかりませぬでございますが、これが不意に出まして後から切っ掛けました。手を負いましたものですから抜いて戦いましたけれども、四人と一人でございまして、前に一太刀斬られましたもので、つまり討死してしまった。(後略)


高台寺党の生き残りである阿部が、斎藤一はスパイではないと断言しているところに、斎藤一の諜報活動の巧妙さ、仕事の確かさがうかがえる。



     山川健次郎 談

この天満屋の話を、後に山口次郎となった斎藤一が、よく私のところへ来て語っていたが、その日はどうもやって来そうな気持がしたので、斎藤は鎖を着て酒を飲んでいた。ところが、段々酔いが廻って来ると、この鎖の手甲が邪魔になって仕方がない、その上どうも暑苦しいので、これを脱いで終おうと思って、手甲の中指へかかっている輪のようなところを、指から抜こうとしたが、なかなか堅くて抜けない、抜こう抜こうとしているところへ、どッと押し込んで来たので、大変こんどは、この鎖が役に立ったといっていた。
斎藤の語に、
「どうもこの真剣の斬合というものは、敵がこう斬込んで来たら、それをこう払っておいて、そのすきにこう斬込んで行くなどという事は出来るものでなく、夢中になって斬り合うのです。この夜も、私が無茶苦茶に暴れていると、敵の誰かが、そ奴は何か着ているぞ、斬らずに、突け突け!といっているのが、耳に入ったので、ようし突いて来るなら俺もこうしてやると決心した位のものでした。」
とのことである。


これは子母澤寛が、昭和三年十月、当時77歳で存命中であった、山川健次郎より聞いた話である。



     土田敬子 談

藤田五郎さまは、よく私の実家高嶺家に遊びにみえておられました。御酒がお好きで、おいでになると必ず御酒を差し上げておりました。たいそう無口で、お背の高いやせた方で、いかにもいかめしい、それらしいふうにお見受けいたしました。当時、父は女子高等師範学校の校長をしておりました。五郎さまは、その女高師で、校内取り締まりのようなお仕事をなさっていましたが、雨が降る日など、生徒たちを迎えに来るお抱えの人力車の車夫たちが、一せいに校門の中までずっと入って参りますので、混雑いたします。そんな折に、うまく私たちと車夫がゆき合えるように、指図しておられました。(後略)


土田敬子は、会津の神童といわれた天才的な学者、高嶺秀夫の娘で、元警視総監土田国保の母である。



     小林栃子 談

五郎伯父は、ふさふさとした長い眉毛で、眼光は炯炯と鋭く光り、無口で体の大きくみえる方でした。年に一回は福島へ必らず墓参に帰り、父高木盛之輔のもとへよく泊まりに来ては、二人で年中お酒をのんでは、戊辰戦争の話をして、ヒフンコーガイしておりました。親戚の男の子は皆この五郎伯父に剣道を教わりました。新選組に入っていたことは知っておりました。警視庁におりました頃、皇宮警察の仕事もやっておりまして、昭憲皇太后の護衛長を仰せつかったことがありまして、よくその話を伯父からききました。「あのような美しい方はめったに無い」とお美しさを讃えておりました。(後略)


小林栃子は、高木盛之輔の六女。高木盛之輔は、斎藤一の妻、時尾の実弟である。



     藤田夏子 談

五郎は明治二十四年、警視庁を辞めて、東京高等師範学校附属東京教育博物館看守になりましたが、時尾はずっと女子高等師範学校の舎監を致しておりました。もちろん、初代東京高等師範学校校長の山川浩の庇護もありましたでしょうが、実は高嶺秀夫の推薦で二人共奉職致しましたときいております。高嶺秀夫は明治十二年(二十六歳)、東京師範学校長及び、明治三十年(四十四歳)、東京女子師範学校長となり、時尾といとこ同士にあたっていたそうです。姑みどりの話によると、この方のお邸には立派な倉があって、そのなかに刀剣類、美術品など、ぎっしり詰っていまして、いつも錠が掛けられてありましたそうですが、五郎だけはひとり勝手に出入することを許されていて、刀剣の鑑定がうまかったせいか、よく目利きや、手入れなどを頼まれていたそうです。


藤田夏子は、斎藤一の孫の藤田實の妻である。姑みどりは、斎藤一の息子、勉の妻。



     八木為三郎 談 

(山崎蒸が)棒を遣ったのは見ませんが、長巻といって、柄の短い薙刀のようなものが上手で、新選組の道場で、これを振り廻して暴れているのを見たことがあります。この山崎の相手には播州明石の浪人で、大変近藤のお気に入りだった斎藤一がよく立ち向かっていました。斎藤は流儀は何んですか知りませんが、実にいい腕でした。新選組の中では先ず五本の指に入る人でした。


これによると、やはり斎藤一は相当の剣の実力を持っていた事が分かる。



     八木為三郎 談 其の二

私の家へ泊ったのは、芹沢鴨、近藤勇、山南敬助、土方歳三、永倉新八、沖田総司、野口健司、原田左之助、井上源三郎、藤堂平助、平間重助、平山五郎、佐伯又三郎の十三人ですが、南部亀二郎さんのところに泊っていた新見錦、粕谷新五郎の二人と、斎藤一というのが殆ど此方へ入浸って、毎晩雑魚寝をしていたという話でした。十三人と斎藤一は朧げながら記憶はありますが、新見と粕谷というのはまるきり覚えがありません。


何故か斎藤一は八木為三郎翁の印象に残っていたようである。この談話に信を置くならば、斎藤一は浪士組加盟当初は、南部亀二郎邸に泊っていたようであるが、八木邸の方へ入り浸っていたというから、これは、やはり、近藤勇等、試衛館の面々と懇意にしていたという事であろう。



     中島登 書

山口二郎 行年二十七才

元徳川臣たり故有て京地に到り新選組に加入し助勤役たりしか。撃剣を能くし、柔にして能く剛を制すの器あり。
右会津に来て数々戦功あるにより昇任して終に隊長となり。
辰九月四日如来堂と云処の戦ひに僅か十三人にて三百余の敵に取囲まれ四方に当て突撃決戦し、終に血路を得す長士枕を共にし潔く討死す
天晴れ信勇の武勇なり


新選組隊士の中島登の書いた、「戦友絵姿」の山口次郎の箇所の添書き。これによると、山口次郎は如来堂にて討死したことになっている。



     佐川秦子 歌

このにほひ これのつくりと 老人は 古きつるぎに ひとりこちつつ


この歌は、佐川秦子の歌集「しのぶ草」に収められているもので、在りし日の藤田五郎を偲んで歌ったものである。秦子は、高木盛之輔の娘で、佐川官兵衛の息子、直諒の妻。藤田五郎にとっては、姪にあたる。



     谷口四郎兵衛日記より

吾局(新選組)、会津来国、諸方戦よりついに今、盟士多く戦死、わずか十四人残る。されば凌ぎ起こさん。志あれどもひとたび会津(に)来りたれば、今落城せんとするを見て志を捨て去る、誠義にあらず


会津に到って新選組隊長を拝命し、戦い続けた斎藤一の、塩川滞陣中に発した言葉である。このように主張して仙台行きを拒み、会津に残った斎藤一のこの言葉からは、会津藩に対する特別な感情が見て取れ、後半生を旧会津藩士として生きた姿にも通ずるものが感じられる。



     稗田利八翁 遺談 其の一

ずっと明治にになって、東京で当時実際にやった斎藤一氏にこの話(天満屋事件)を詳しく聞いたことがあります。その時に、
「いつやって来るか解らないので自分は鎖を着て酒を飲んでいた。ところが酔って来ると、体がほてり出して、この鎖が邪魔になっていけないので、いっそ脱いでしまおうと思い、手の甲から中指にかかっているところをとろうとしたがそれが仲々とれない、二三度やって見るが駄目なので、ええ面倒臭いと、そのままにして、盃を持つと、そこへどっと斬り込んで来たんだ。相手もなかなか冴えたもんだった。何しろ行燈が消えて真っ暗で、しかも狭い座敷の中だからやり切れない。夢中で暴れている中に、どうも三四度刀が自分のからだにさわったように思うが痛くもないので、なおも頻りにやっていると、「其奴は何か着ているようだ。斬っても駄目だから、突け、突け」と叫んでいるのが聞こえた。「畜生!来い!」と思っている中に、ばたばたと戦争は済んでしまって、自分は傷一つ負わなかった。これも鎖帷子のおかげで、あれは実にいいものです。あなたは刃と刃とを合せた斬合をしたことはないそうだが、実際刀を抜き合って、「さあ来い」となると、敵が、こう来たからこう避けて、こう斬る----なんてうまい事が出来るもんじゃない、ただ夢中で斬ったり突いたりする、敵がばったり倒れて、はじめて、「まァよかった」と思うくらいのものである。剣術なんてものは要するに、刀を早く振廻すことさえ知っていればいいので、そういう時は、ただ早いとこ勝負だから。天満屋の一件でも、私は、相手のどこをどう斬ったのか突いたのか一切わからない、第一相手が何人くらいいたのかさえわからなかった。」
とのことでした。



     稗田利八翁 遺談 其の二

斎藤一氏は播州明石の人ではあるが、近藤先生の腹心で、副長助勤で三番隊長をしていたが、表面脱隊して、御陵衛士組の月真院へ間者に入っていた事があります。われわれが、はじめて堀川の屯所へ着いて間もなくのこと、わしが廊下からふと裏口の方をみていると、そこの板敷きで、草鞋を脱いでいる人がいる、隊士達が二三人側へ寄ってお辞儀をしたり、何にか片づける世話を焼いたりしているので、「何という人だろう」と思っていると、その晩、飯の時に、「副長助勤斎藤一氏公用をもって旅行中の処、本日帰隊、従前通り勤務の事」という掲示が出たので、「ははァ、先っきの人が斎藤一というのか」と思ったことがある。剣術は大したものでした。



     新撰組始末記より

斎藤ハ局中一二ノ剣客ニテ、其上殺伐ノ癖アルモノ


西村兼文が「新撰組始末記」の武田観柳斎殺害について書かれた項に記述した、斎藤一の印象である。偏見も多分にあるだろうが、当時京の人々に粗暴な印象を持たれていた新選組の中でも、隊中きっての剣の使い手であったのであれば、斎藤一がこういう風に表現されるのも無理は無いのかもしれない。しかしここでもやはり、斎藤一の剣の実力は高く評価されている。




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