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新選組 斎藤一
藤田家の人々
| 藤田五郎が築き上げた「藤田家」の家族を紹介する。 |
| 藤田五郎 | 明治以降、斎藤一は藤田五郎と改名。ここから藤田家の歴史が始まった。 | |
| 藤田時尾 | 藤田五郎の妻。弘化三年四月十五日、会津藩大目付高木小十郎・克子夫妻の間に長女として生れる。 本名は「貞」といい、照姫付中籐で祐筆をつとめた。「時尾」という名は、この時の源氏名を、後に本名としたものである。 慶応四年の会津戦争では、多くの会津藩士と共に篭城した。その時、ともに篭城していた山本覚馬の妹、八重子(後の新島襄夫人)の回顧談に時尾の名前が出てくる。 「入城後、妾は昼間は負傷者の看護をしていましたが、夕方になり、今夜出撃と聞きましたので、妾も出ようと脇差にて髪を切り始めましたが、なかなか切れませんので、高木盛之輔の姉、ときをさんに切ってもらいました。」(平石弁蔵『会津戊辰戦争』) 壮絶な篭城戦の末、会津は落城降伏し、戦後は多くの会津藩士と共に斗南に移住し、過酷な極貧生活を送った。 その後、明治七年頃、藤田五郎と結婚し、勉、剛、竜雄の三人の子を産んだ。 明治四十年十月に、会津戦争での戦死者慰霊の為、会津出身の婦人十人と会津七日町の阿弥陀寺に桜を植樹した。 翌明治四十一年には、会津出身婦女子に対し、墓田購入の寄付を募り、自らも若松外発起人の総代となり、安田銀行に口座を開き、二円五十銭を寄付している。 明治四十一年三月調査の『大日本婦人録』に時尾の事が記載されている。 「藤田時尾子 弘化元年生 女子高等師範学校書記藤田五郎夫人 女学生監督寄宿舎主 本郷区真砂町三十」 この女学生寄宿舎主とは、学校の了解を得た上で、女高師の生徒を自宅に下宿させていたという意味で、長男勉の妻、西野みどりもここに下宿していた。本郷区真砂町三十はその住所で、この地で時尾は七十五歳の生涯を閉じた。 |
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| 藤田勉 | 明治九年十二月十五日、藤田五郎・時尾夫妻の長男として生まれる。 府立四中を卒業後、幼年学校、士官学校を経て、軍人となった。 軍では若松連隊に勤務し、日本海海戦では「三笠」に乗って戦ったという。 後、西野みどりと結婚し、素子・実・律・恭子・進・和子・徹の七人の子供が生まれた。 東京都本郷真砂町に住んでいたが、大正十二年に中野区弥生町に家を新築した。しかし、この家を建て始めたばかりの頃に、関東大震災に遭い、その後建て直す際に地下室を掘り、そこに井戸を掘って水を常備したり、味噌や醤油、砂糖等の他、保存食を沢山貯蔵し、近所の人達に「さすが軍人さん」と大評判だったという。 だが、この家も第二次世界大戦の空襲で焼失し、戦後は荻窪に移り住んだ。 晩年、三女和子の夫が内科医をしており、そこで養生していたという。 昭和三十一年、逝去の直前、勉は父五郎から聞いていた事柄を口述し、妻のみどりに書き留めさせた。これがいわゆる『藤田家の歴史』といわれる藤田家所蔵の貴重な文書史料である。 その貴重な史料を遺し、昭和三十一年、娘の和子とその夫に看取られ、その生涯を閉じた。 |
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| 藤田剛 | 明治十二年十月四日、藤田五郎・時尾夫妻の次男として生まれる。 外国生活が多かったという。 大正三年、会津藩家老田中土佐の孫娘の浅羽ユキ(雪子)と結婚し、二男・二女をもうけた。 長男の秀城は、海軍技術少尉であったが、終戦後は横浜市役所建築課に奉職したという。 次男統衛と次女高子は浅羽家の断絶を顧慮して、浅羽家の養子となった。 昭和二十一年正月に没した。 |
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| 沼沢竜雄 | 藤田五郎・時尾夫妻の三男として生まれたが、戸籍にはその記載がない。 竜雄は生後直ちに、会津藩家老格沼沢家の十三代当主、沼沢小八郎・久仁夫妻の養子になった為である。 この沼沢家は、時尾の母高木(旧姓木本)克子の姉で、会津城下戦で姑、娘共々自刃して果てた沼沢道子がおり、その息子小八郎と、時尾はいとこ同士にあたる。 その小八郎と久仁の間に子供が生まれず、断絶を憂いていた沼沢家は、まだ竜雄がお腹にいる時から、男子であったら是非とも我が家の養子に頂きたいと願い出ていた。 藤田家もこれを快諾し、待望の男子が生まれると直ぐに、沼沢家の養子とした。 この出生の秘密は両家の間で固く守られ、竜雄は自らの出自を全く知らぬまま育った。 大学生の頃、自分の出生に疑惑を持った竜雄は、叔母の井深さくに問いただし、その真実を知った。はじめて出生の秘密を知った竜雄は、子供のように涙を流し、その話に聞き入っていたという。 後に、多津という女性と結婚し、子供をもうけた。 この、竜雄が出生の秘密を知るくだりは、赤間倭子先生が、竜雄・多津夫妻の次女、沼沢瑛子(瑛)氏から直接聞いた話である。 |
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| 藤田みどり | 明治九年三月二十九日、酒田の名家で、酒田発祥の三十六人衆の一人の、米問屋、船問屋などをしていた商家、西野家の次女として生まれる。 父より「財を望むか、教育を望むか」と問われたみどりは、教育を受ける事を望み、女子高等師範学校へ入学し、理科を学んだ。 その女高師の生徒であった頃の下宿先が、当時、女高師の舎監をしていた藤田家であった。そこで、みどりを大変気に入った時尾は、息子の嫁にと、再三人を立てて先方の親に結婚を申し込んだり、御百度を踏むなどして、遂にその約束を取り付けた。 第五回卒業生として、女高師を卒業したみどりは、藤田勉と結婚し、七人の子供を産んだ。 晩年、藤田五郎が胃潰瘍を患うと、みどりは時尾と共に甲斐甲斐しく看病したという。 また、夫の勉が昭和三十一年、逝去の直前に、父五郎から聞いていた事柄を語り遺した『藤田家の歴史』を書き留めたのもこのみどりである。 御子孫の御話によると、おっとりとして教養深い物静かな人であったという。 |
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| 藤田ユキ(雪子) | 横須賀市公郷の元回送問屋、浅羽家に長女として生まれる。 母は、会津藩家老田中土佐の妾腹の子で、明治十二・三年頃、会津人石川栄の妻となり、一子を産んだが、明治十四・五年頃に、石川栄の行方が分からなくなった。アメリカへ渡航したともいわれる。 その後、浅羽家に嫁入りし、二女・一男を産んだ。その長女がユキ(雪子)である。 ユキ(雪子)は大正三年に藤田剛と結婚し、二男・ニ女を産んだ。 そのうち、次男の統衛と次女の高子は、浅羽家の断絶を憂い、養子として送り出した。 |
| この項の作成にあたり、藤田五郎の長男勉氏の三女和子氏の次女で、斎藤一の曾孫にあたられる御子孫の方に御協力・御助言を頂きました。 ここに、厚く御礼申し上げます。 |
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